渡嘉敷島は沖縄県那覇市の西約32kmに位置しています。
渡嘉敷島の人口は約700人で、「渡嘉敷」「渡嘉久」「阿波連」の3つの集落に分かれています。 電気は火力発電で、渡嘉敷港横に発電所があり、渡嘉敷島から他のケラマ諸島の島々へ海底ケーブルを使い電気を送っています。
島の約85%は森林で、山も多く観光されるにはレンタカーが必要でしょう。
また、渡嘉敷島には「ハブ」もいるので、むやみに草むらなどには入らないようにしてください。
渡嘉敷港旅客待合所、渡嘉敷村観光案内休憩所、駐車場、岸壁(係留施設)。1階には、おみやげ品店・渡嘉敷村商工会事務所(987-2430)があり、2階は渡嘉敷村歴史民俗資料館 (教育委員会 987-2120)やレストランがあります。
国立青年の家の敷地内にある東側の展望台です。
こちらからは目の前に前島、黒島(無人島)が見えます。
視界がいい日はチービシ諸島や沖縄本島が見えますよ。
また、夜に訪れると沖縄本島の夜景が水平線にキラキラと輝いています。外灯もないので星空を眺めるにも最高の場所です。
第2次世界大戦の際にここで煙を焚き外敵がきたことを沖縄本島に連絡していました。
渡嘉敷港から国立青年の家へ登って行く途中にあります。
第2次世界大戦の慰霊碑です。渡嘉敷島には、他にも数多くの慰霊碑があり、国立沖縄青年の家の敷地内には集団自決之碑などがあります。


こちらの展望台は「渡嘉敷港」が一望できます。
公共の施設ですのでとても広くてキレイです。
国立沖縄青年の家の施設内には「集団自決之碑」や「ヒータティヤー」「東展望台」「西展望台」などがあります。
国立沖縄青年の家の敷地内にある西側の展望台です。
こちらからは、目の前に座間味島、阿嘉島を含む慶良間諸島が一望できます。
こちらを訪れたお客様からは「天橋立沖縄バージョン」といわれる方もいらっしゃるように絶景のポイントです。視界がよい日には、久米島まで見えることもありますよ。

このビーチは正面に座間味島、阿嘉島が見えます。
海の色もきれいなグラデーションでとても綺麗です。ただし、リーフがとても遠いので、ビーチ近くでは珊瑚礁は期待できないでしょう。海水浴におすすめの ビーチです。シュノーケリングをする場合はちょっと沖まで泳ぐと良いかもしれません。ウミガメが住み着いていることでも有名なビーチです。
展望台まで上がる階段は、坂道を登り切ったところにちょこんとあります。駐車スペースもありますので、そこから登りましょう。その入口からもう少し先まで 行くと駐車場があって、フィールドアスレチック的な森林公園が広がります。展望台への道は階段が結構あるので体力が必要ですね。でも途中途中で見る景色が とってもキレイなので、特に展望台から降りるときには景色をいろいろ楽しみましょう。
渡嘉久ビーチから阿波連ビーチまで行く途中にある展望台です。
こちらからは渡嘉久ビーチと阿波連ビーチが一望できます。渡嘉敷島を代表するビーチをいっぺんにご覧いただけるので絶景ポイントです。
阿波連ビーチから見える離れ島を左に真っ直ぐビーチを歩いて行くと、岩のアーチが見えてきます。そこをくぐり階段を登っていくと展望台に行くことができます。
こちらからは慶良間諸島や夕日の絶景ポイントです。
冬になるとケラマ海峡を泳ぐザトウクジラも発見できるかもしれませんよ。
帰りは岩のアーチから覗いた阿波連ビーチの写真撮影もお忘れなく!
真白い砂浜が円弧を描き、透きとおる海水はまさに絶景!
夏には海水浴客も多く訪れ、ライフセーバーもいるので安心して海水浴を楽しめます。
目の前には離れ島がありますが、阿波連ビーチと離れ島の間は船の航路となっているので決して泳いで渡らないでくださいね。(航路は潮もとても早くなります)

阿波連崎へと向かう途中にあるビーチです。
自然がそのまま残るビーチなので、岩がゴツゴツしていたりするので裸足では危険かもしれません。
また、ライフセーバーなどの監視人がいないので、なるべく泳ぐのはやめましょう。
ウラビーチからは視界がいい日は水平線に沖縄本島が一望できます。
こちらのビーチはライフセーバーなどの監視人がいないので、なるべく泳ぐのはやめましょう。
最大供給電力3,856khw
現在、渡嘉敷小・中学校の北側に、村の人々がイヒッピジャーラと呼んでいる小川が流れています。この小川の川岸に、古ぼけ たトタンぶきの鰹節乾燥小屋が一棟とレンガ造りの煙突が一本立っています。この工場が昭和30年代後半前まで操業していた鰹節製造工場跡です。鰹漁は、明 治36年からおこなわれ、同年、鰹節製造工場もできました。イヒッピジャーラは、今でこそ水量 が少ないのですが、上流の方にダムができるまでは、水が豊富に流れ、水を大量 に使う鰹節製造工場の立地条件としては、最適でした。
鰹漁がおこなわれる以前は、くり舟を利用した一本釣りの沿岸漁業と山から松材を切出し、主に那覇方面 へ薪として売って、生計を立てる程度で、生活は貧しかったのです。
鰹漁が盛んになり、大型船で操業するようになると、村民の生活もしだいに豊かになっていきました。明治の中頃まで、かやぶきの家が多かった渡嘉敷村も、鰹漁の収益が増えるににつれて、瓦ぶきの家が多くなっていきました。
昭和20年3月26日、米軍が慶良間諸島に上陸、渡嘉敷部落の家々も漁船もほとんど焼失してしまいました。戦後は、米軍から払い下げられた上陸用舟艇 (しゅうてい)M92型などを譲り受け、鰹漁が再開されたのです。その後、ガリオア資金で祐祥丸、漁集丸などが建造され、漁獲を競い合いました。これらの 鰹船は、30トン前後の小型船で、乗組員は、40名程でした。
春の漁期は、鰹が南太平洋から黒潮にのって北上してくる3月頃から始まり、6月頃まで続きました。漁師は、朝3時半には起床し、乗組員全員がそろう4時 には出航するのです。伝馬舟(てんません)をともなった本船は、阿波連の灯台近くにある浮岩近海で、鰹の餌になるキビナゴは、本船の四つの生けすに入れら れるのです。餌を捕った鰹船は、前島と渡嘉敷島の間を通 り、黒島、粟国、渡名喜島近海まで行って漁をしました。時には、阿波連のウン島の南を廻り、久場島や阿嘉、慶留間の近くで操業する場合もありました。浮岩 近くでキビナゴが少なくなる夏場は、喜屋武(きゃん)岬沖を通 り、知念半島を廻って久高(くだか)島や津堅(つけん)島近海で餌(タカサゴ、サレーラー)を捕ったのです。
夏場は、夜中の2時に起床、3時には出航し、久高近海に来た頃夜が明けました。津堅と久高の近海でタカサゴを捕った漁船は、再び喜屋武岬を回り、粟国、渡名喜近海で操業したのです。
鰹の大漁船が渡嘉敷島に帰ってくる頃には島の家々にも灯がともり、8時、9時頃になる場合もあり、時には、10時、11時をまわる場合もあったのです。 出航してから帰島するまで17、8時間もかかる大変きびしい仕事でした。漁船内には常時40名余りの食事が準備できる炊事場もつくられ、いつでも食事がで きるようになっていました。
漁船といっしょにタカサゴを捕るのに参加した伝馬舟の乗組員4、5名は、久高や津堅の借家に宿泊し、翌朝、餌場である久高島と津堅島の近海で鰹船と合流し、タカサゴを捕るのです。このような夏場の鰹量 は、10月半まで続きました。大漁の時は、1隻で200から300匹程の鰹を水揚げしますので、渡嘉敷の砂浜は足の踏み場もないほど鰹で占められていました。
水揚げされた鰹を加工するのは、専門の男子の製造人7、8名を除き、ほとんど女性でした。鰹船から陸揚げされた鰹は、魚の大きさや鮮度によって選別 され、頭や内臓などが取り除かれます。つぎに、身おろしされ、かごに並べた後、約1時間煮るのです。煮上げた鰹を冷やして、骨を抜きます。その後、蒸気を当てて水分をとり、薪の煙で乾燥させ、日乾を4〜5時間やった後、仕上げるのです。
まもなく、夏場の漁期も去り、秋の深まる10月の末から11月の北西風(ミーニシ)の吹き始める頃になると、海が荒れ、鰹漁も操業できなくなります。
海で仕事のできない冬場は、畑仕事や山仕事にでかけます。田や畑のない次男、三男の人々は、主に糸満の真栄平(まえひら)等に行きました。そこできびかりや、芋の植え付けなどをして生計を立て、次の漁期を待つのです。
60年代に入り、鰹の漁獲高も徐々に減り、平行して、1962年、赤間山に米軍のミサイル基地が造られたため、若い人々は、道路工事や基地に働きに行って、鰹漁は、後継者を失ってしまいました。
1964年、50年余り続いた鰹漁や鰹節製造工場は、操業を停止したのです。
(小嶺正光氏より聴取)
那覇警察署管内お問い合わせ(渡嘉敷駐在所:098-987-2039)
渡嘉敷小中学校敷地内お問い合わせ(調理場:098-987-2452)
購買、金融、保険、精米所。お問い合わせ(渡嘉敷村農業協同組合:098-987-2150)
1階・村長室、出納室
総務課:098-987-2321 民生課:098-987-2322
2階・議場
議会事務局:098-987-2132
経済課、建設課(仮設プレハブ)098-987-2323
ショートステイ、デイサービス
お問い合わせ(民生課:098-987-2322)
(渡嘉敷村高齢者生活福祉センター:098-987-3270)
医師1名、看護婦1名、事務員1名。
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郵便事業
お問い合わせ(渡嘉敷郵便局:098-987-2131)
字渡嘉敷で学問の神様と呼ばれる僧の墓は、渡嘉敷集落の南東、渡嘉敷川が港にそそぐンナトゥヌチビ−(港の尻)と呼ばれる 場所のやや上流で、仲獄の北西、里の山の山裾に位置する平地の渡久地ガーラと呼ばれる場所の保安林の中にあります。ここは、字渡嘉敷川の対岸でもあるが、 川を渡って30メートルほど山裾に近づいた場所です。
ここは「イホ崎」という場所で、そこには流刑になって島に住んだ大和の僧鬼才の墓があるといわれています。『琉球國由來記』に、6月のウマチ−の時に神 酒などを供えて祈願したとあります。戦前まで、渡嘉敷の字では、正月の7日と6月の稲穂祭のときには、このいほ崎の学問の神様に村の安全と作物の豊饒を祈 願していたが、戦後は稲穂祭のときの祈願はしていません。
なお、ここには、香炉が3個あり、この僧の外に歌・三味線の神の男神、祭りの儀式を教えた女神が祀られているとする伝えがあります。現在、この拝所は、字の人達からは、学問の神様と呼ばれ、高校や大学を子供達が受験するときにも祈願します。
字の伝えによれば、ここに葬られている人は、大島出身の学問僧で、この僧が来るまで琉球では漢文だけを用いていたが、この人が薩摩藩から派遣されてきて国文学を教えたので、琉球でも和文が出来るようになったといわれています。
また、この僧侶は渡嘉敷に来ると米祝女殿内(メーヌンドゥンチ)で暮らし、島の人から「学問世の先生」と呼ばれていました。そのころ根神殿内(ニーガン ドゥンチ)に非常に奇麗なニーガングヮー(根神小)という娘がおり、その女性と恋仲になり、昼は米祝女殿内で島の人に学問を教え、夜になるとこっそり根神 殿内に通いました。
島の若い男達は、この僧侶を妬みこの僧が根神殿内に夜通うとき、必ず途中の中丹屋という家の犬が吠えるので、その犬の鳴き声がしたらみんなで僧侶を殺そ うと相談し、中丹屋の後ろに隠れて待ち伏して、通りかかったこの僧侶を殺してしまいました。その死体を渡嘉敷川に流したところ大雨が降り、死体は渡嘉敷川 が海に注ぐ、ンナトゥヌチビ(港の尻)と呼ばれる河口の芦が生えた所に流れ着きました。
村の人達は、その死体を見つけ、このままにしては置けないと、その近くの山手の方に埋めたのです。ちょうどその年にコレラが流行し、村中の若者のほとん どが次々に死んだので、ユタを雇って聞いてみました。するとその先生がユタの口を借りて、「このコレラは、私の祟りだ。もう一度葬り直して、私を祀ってく れ。今度葬り直すときには、南京豆を焼いてそれも一緒に埋めなさい。私の思いが晴れていなかったら、その南京豆の芽が生え、もう一度私は世に出て村人に祟 るだろう。」といったといわれ、村人達は、それを聞くとお墓をウシクルシモー(牛殺し毛)に移し、その墓に南京豆を焼いて入れ、その先生の祀ることにしま した。
ところが、その墓から南京豆が生え、若者達が続けて死に、村では死人が出てもその死体を捨てに行く人さえなくなって、家族だけで葬式をすることになりま した。そこで、もう一度ユタを雇って聞くと「私は村人に学問を教えてやり、何も悪いことをしないのに殺され、雨が降れば水に漬かる場所に葬られている。そ の上、ここからは薩摩の船が見えるので、その度に辛いからあの船の見えないところに葬ってくれ」というので、墓を港の内側の場所に移し、墓の向きも港とは 逆の西向きに作り、拝所を建てたということです。
字の人からトゥンチグヮーとも渡嘉敷神とも呼ばれている拝所は、クミチジ山の山すそにあり、港の方向に向いています。この拝所の屋敷は、70坪ほどの広さがあり、庭の入口に鳥居があります。
現在の拝所がある場所は、昭和40年にげんざいのものに建て替えられるまで、クミチジ山の一部になっており、殿内小と呼ばれた拝所ももっと前方にあっ て、瓦ぶきの建物でした。また、この、拝所の鳥居は、昭和12年に南方漁業に出稼ぎに行った人達が寄進して作られたものです。まだ沖縄戦の時の砲弾の跡が 残っています。
この渡嘉敷神社の前方に、祝女殿内(のろどんち)、前祝女(めえのろ)殿内、元(もと)祝女殿内、新(みい)祝女殿内、しらせ御獄(うたき)の獄登りを主宰する屋号西ン渠の大城家、根元船頭家などの旧家があります。
この拝所には、代々祝女をまつってあります。お先軸と呼ばれる唐船世の祝女、今軸と呼ばれる尚真(しょうしん)王以後に三六島に配置された渡嘉敷祝等がまつられています。それに火の神ニ柱もまつられているということです。
ただし、祝女の任期の途中で亡くなられた祝女は、ここにはまつられていません。ここでは、年中行事のさまざまの祈願を祝女を中心とする神女や区長などが参加して行う場所です。現在は、区長が管理しています。
なお、この拝所が渡嘉敷神社と呼ばれるようになったのは、昭和18年の古波蔵春という女性が神職講習を終了して字渡嘉敷の祝女となり、この拝所で祭りを 行うようになった以後で、その頃から県庁からも渡嘉敷神社と呼ばれるようになったということです。戦前には、出征兵士の祈願や儀式や結婚式なども、ここ で、祝女がおこなっていました。
字渡嘉敷45番地の屋号「根元」家の石垣は、渡嘉敷村に残る貴重な文化遺産である。
当家は、琉球王朝時代にこの島の男たちが水主(唐や薩摩へ行く船の従業員)として唐船(進貢船・接船)や(薩摩へ行く御用船)で活躍した頃に繁栄したと伝えられている。
屋敷を囲む石垣や、内にあるヒンプンはどれも精巧に切り取られた石灰岩を正確に積み上げられており、現在のように道具もなかったであろう時代の職人技のすばらしさをかいま見ることができる立派な石垣である。
この石垣は、渡唐船の船頭役を勤めた当家の主が『唐儲け』により建設したといわれており、往時の財力がうかがわれる。
さった第二時世界大戦において東側の一部が破壊されたが、平成九年三月に修復した。(渡嘉敷教育委員)
渡嘉敷村役所の南西300メートルにある標高37メートルの丘である。この丘は、南北220メートル、東西130メートル のほぼ三角形をしており、字渡嘉敷の集落は、このクミチジ山を起点として東の方向に港まで続いています。渡嘉敷港から見れば、集落の最も奥にある丘です。 このクミチジ山の後ろを西山から流れてきた恩納川原が北から南に流れています。この恩納川原は、クミチジ山の南でヲノトコ原から流れて川と合流して渡嘉敷 川となっています。この二つの川の流域がクミチジ山の南西から北西にかけて広がる豊かな水田地帯を形成します。
クミチジ山の頂上の平坦地には、神女が神遊びをするアシビナーがあります。このアシビナーを起点としてクミチジ山のふもとの拝所の配置を見ると、真北の 久米元の殿、真南にスンドンチナー(首里殿内ナー)、真東にカナヒヤグの殿と長丈の殿、北東に渡嘉敷神社(旧殿内小ー歴代の祝女をまつる)があります。し たがって、このクミチジ山の周辺は字渡嘉敷にとって最も古くからある拝所が集中しています。また、祝女を出した家や獄登りを主催する家の多くも、このクミ チジ山の近くにあります。
クミチジ山は、字の人達から神聖な山とされ、神女以外はこの丘に登れませんでした。字渡嘉敷の最大の祭りである種取りの祭りでは、この丘に祝女を始めと する神女たちが真北にある久米元の殿と真南にあるスンドンチナー(首里殿内ナー)の両方から登り、丘の頂上にあるアシビナーで最も秘儀的な神遊びを行った といわれています。この丘は、始祖たちの記念すべき丘であり、そのために、種取り祭りの最も重要な行事の場面 になったのです。
西御獄の項でも話したように、字渡嘉敷の祖先が西御獄、城島、里に住んでいたとき、その三方から集まって相談した場所がこのクミチジ山だったのです。海 が後退し、この丘が陸地になったこともあって、字渡嘉敷の祖先が最初に平地に住み始めたのも、このクミチジ山の地であったといわれています。
この洞窟は沖縄戦における旧日本軍「海上特攻艇」の秘匿格納壕で、黒色千枚岩の堅い岩石をくりぬいて構築されていますが、壕の掘削には主に朝鮮人軍夫があたり、島の女子青年が協力したと伝えられています。特攻艇は「マルレ」と呼ばれ、ベニヤ板製で船幅1.8米、船長5.6米、重量1,200kgの爆雷2個を登載し、米軍艦艇を特攻攻撃するための秘密兵器でした。当時、渡嘉敷島には赤松嘉次大喪尉率いる「海上挺身戦隊第三戦隊」(特攻艇100隻、人員540人余)が配備されていました。
シャワー、トイレ、更衣室、屋根付きカマド、炊飯場が完備。 キャンプ用具、カヌー、カヤック、マリンスポーツ用具類の貸し出し可。 (200人収容)
お問い合せ(国立沖縄青少年交流の家:098-987-2306(代))
阿波連部落の西側にクバの密生しているところにキャンプ場があります。ここが昔、クバを生産していたクバ山なのです。
昔、沖縄では、クバの葉を乾燥させ、クバ扇、クバガサ、クバみの、クバジー(クバの葉のつるべ)などがつくられました。また、特に、阿波連や渡嘉敷で は、クバの葉を数百枚、数千枚も組み合わせて小型の舟の帆を作ったともありました。このように日常生活のなかでいろいろな使われてきたクバの葉は、琉球王 府時代、王府に納める上納品だったのです。クバ山だけではクバの生産が間に合わない時は、慶留間(げるま)島や阿嘉(あか)島からも取り寄せたのです。そ の影響でしょうか。渡嘉敷島の山々にはクバがたくさんはえています。
管理棟、トイレ・シャワー、キャンプ場、プール、オートキャンプ場、多目的広場、炊事棟
お問い合わせ(経済課:098-987-2323)
阿波連の生活館の庭に、約70キログラムの卵形をした力石があります。戦前、男子15才になると、一人前の青年と見なさ れ、青年の仲間入りをしたのです。青年の仲間入りをする第一の条件は、この力石を持ち上げることでした。そこで若者たちは、競って力石を持ち上げる練習を したのです。
このような力石は、阿波連の部落だけでなく、どの部落にもあったのです。渡嘉敷部落にも力石がどこかにあると思われます。昔の青年たちは、夕方になると公民館の庭に置いてあるこの力石をかこんで、力比べをしたり、力自慢をしたりしました。
校舎、運動場、体育館
お問い合わせ(学校:098-987-2134)(教育委員会:098-987-2120)
クバンダキは、阿波連ビーチの西に南西に突き出した岬で、この岬は、中心部が標高27メートルの丘になっています。この丘には、東から登る遊歩道があり、頂上は展望台になっています。この展望台の西側すぐ下にクバンダキの拝所があります。
この拝所の北側には、阿波連植物公園があります。この公園の一帯を字でクバ山と呼んでいます。この拝所がクバンダキといわれるのは、このクバ山の前にあるためでもありますが、座間味村の久場島へのお通 しを行う拝所であることにもちなむ名前でもあると思われます。
阿波連では、種取りの神は、天から久場島に下り、久場島から阿波連に来訪すると信じられています。そこで、久場島に真向う位 置のクバンダキが久場島へのお通しの拝所となっているのです。また。唐旅や大和旅の途中や漁など島の外で亡くなって遺体が上がらない人に対して七月に行う タビジュウコウ(旅焼香)は、この拝所で行っていました。
このクバンダキの背後にあるクバ山には、クバが密生しています。昔、唐船が近くに停泊したとき、唐船の帆に使用するクバの葉はここから取り、その葉をヒ ナングヮと呼ばれる小屋にいれて蓄えたという。さらに近くには、トシンドゥマイ(唐船泊)という場所があって、日頃は立入ることがゆるされなかったといわ れています。